中村平八先生定年退職記念講演資料

平成18年3月8日 

 

配布した記念講演資料「ロシア・社会主義研究の40年」は、小林一美・岡島千幸編「ユートピアへの想像力と運動」に収録の「ロシア革命、ソ連社会主義とは何であったか」のコピーである。

 

ロシア・社会主義研究の40年

1 修業時代−高校・大学・大学院

2 神奈川大学時代−梶村・富岡先生とのであい

3 1960−70年代−近代資本主義が切り開いた地平、発展途上社会主義論の提起

4 中ソ論争と中村のソ連社会主義論、過渡期論の提起

5 ゴルバチョフのペレストロイカとソ連の崩壊

6 マルクス主義と社会主義の将来について

 

 

 

ロシア革命、ソ連社会主義とは何であったか

−中村平八教授に聞く− (聞き手 小林一美)

 

■−中村先生は四〇年にわたってロシア・ソヴェトの経済や歴史を研究されてきました。そこでソ連崩壊の今日、二〇世紀の社会主義をどう評価したらよいのか、お聞きしたいと思います。私にはソ連社会主義を二〇世紀最大のユートピア思想として考えることもできるのではないか、といった想いがあるのですが。どこでどうして科学的社会主義が、スターリニズムという最もおぞましい独裁体制に変質したのか、またロシア革命とソ連社会主義を全面否定する状況が今日一般化していますが、そうした評価でいいのか、等々これからお尋ねしたい。

また神奈川大学の大学院に各国経済資料室があり、ここを基盤に発展途上経済研究が行われ、冨岡倍雄先生、梶村秀樹先生、後藤晃先生、松本武祝先生などとともに、先生はこれまでに多くの研究者を育ててきています。院生諸君の博士論文は、必ず出版させていると聞いています。それではまず、ロシア語や社会主義研究に関心をもち始めた若い時代のお話しから始めていただきたいと思います。

 

中村−お答えする前にまず釈明を。私は本書に「ソ連を殺したのは誰か」という論稿を寄せる予定でしたが、ある事情で他のメディア(『同志社商学』第五二巻、第四・五・六号、二〇〇一年)に発表することになり、本書に穴をあけてしまいました。そこで、急遠このような形で参加することになりました。

私は一九三六年(昭和一一年)に、信州の諏訪に生まれました。神奈川大学の富士見研修所のある諏訪盆地です。子供の頃は、すでに一九三一年(昭和六年)に始まる日中一五年戦争の最中であり、生まれた年には二・二六事件が起こり、翌年には中国各地で日本軍の侵略戦争が拡大し、ついに一九四一年(昭和一六年)には米英などとの「太平洋戦争」が始まりました。敗戦の一九四五年(昭和二〇年)は、国民学校四年生でした。敗戦後、教育も手のひらを返すように変わりました。「鬼畜米英」の「小国民」教育、軍国主義教育から、いわゆる「平和と民主主義」の教育への転換です。上級生にはこの変化に不信をいだくものもいたようですが、多くの生徒は「平和と民主主義」を自然に受け入れていった、そうした時代が私の少年時代です。

子供の頃、なんだかよく分らないが、なんとなく恐ろしいものが二つありました。それは、血をはいて死ぬと言われ、当時不治の病と恐れられていた肺病、それに「アカ」と世問が噂するものでした。諏訪には富士見高原療養所という有名な結核療養所があり、結核に罹った都会の良家の子女が多くきていました。「風立ちぬ、いざ生きめやも」の文学者の堀辰雄もその一人でした。

もう一つの「アカ」は、親に聞くこともできないほど恐ろしいものでした。永明村(現茅野市の一部)には「アカ」と指さされる家があり、その家は村八分というか、孤立した寂しい存在でした。戦後になって「アカ」とは共産主義者のことであり、戦争に反対し、戦争を命令した天皇様にも反対した家であることが分るわけです。戦災を受けなかった少年時代、この二つが心に残りました。子供の頃に感じた非常に単純なことが、人生に大きな影響を与えることがあるのです。

地元の諏訪清陵高校に入り、先輩たちから「アカ」、つまり共産主義について色々教えられましたが、まだはっきりした理解に至りませんでした。高校入学は一九五一年(昭和二六年)でしたが、当時この学校にはロシア革命、共産主義に共鳴し、生涯を日本革命に捧げるなどと叫ぶ学生もおり、大きな影響を受けました。ところで、諏訪は三万石の小藩で、近代に入ってから岡谷に製糸工業が発展し、労働問題も発生しましたが、地主小作制は発展していませんでした。しかし、本家・分家・新家という血縁関係のなかで、いくらか田畑の貸し借りの関係があり、敗戦後の昭和二一年頃から農地改革が始まると、親戚間に不和軋櫟が生じ、本家の没落・分家の繁盛という状況も起こつたようです。しかし、農村の貧困の問題、いわゆる「アカ」の問題などを本格的に考えるようになったのは、やはり東京外国語大学のロシア語学科に入った以後のことです。ロシア語学科に入ったのは、一九五四年(昭和二九年一のことです。ロシア語を学ぶ動機には、高校時代に友人たちとロシア文学をたくさん読み民謡をよく歌っていたといったこともあります。当時の高校生にとってロシアは憧れの地でもあったのです。

 

 

 

 

     −大学、大学院時代の中村さんと時代の状況はどのようなものでしたか。ソヴェト研究に至る契機などをお聞きしたいと思います。

 

中村−東京外国語大学時代には、社会科学関係、歴史学関係の本を乱読しました。田舎出身ですから、都会の秀才に読書量では負けないぞ、という気持ちがあったのでしょう。外大の開講科目のなかに「ソヴエト経済論」というのがあり、それに出席しました。担当していたのが、後に私の師匠となる宇高基輔(一九一一〜九四年)先生です。先生の講義を聴くことで、頭の中のなかの雑多な知識がまとまり、論理的思考ができるようになりました。

字高先生は講座派派のマルクス経済学者ですが、東京帝国大学経済学部を卒業後、満鉄調査部の東亜研究所に勤め、ソヴェト班に入った経歴のある方です。外大の前身の東京外国語学校でロシア語も勉強し、一九三〇年代のソヴエト経済を研究しておりました。宇高先生の学生時代は、すでに、マルクス主義者の山田盛太郎教授などが大学から追放されており、東京大学経済学部にはマルクス経済学の講座はありませんでした。宇高先生は独学で国禁のマルクスの勉強をされました。先生は戦時中、ドイツ語、ロシア語でマルクスやレーニンの原典を読み、翻訳などして勉強されていました。

敗戦後、マルクス主義研究はタブーでなくなり、宇高先生は旧制第六高等学校(岡山)の経済学の教授となり、次いで東京大学に移られました。東京大学社会科学研究所に移られたのは、次のような状況があったためです。敗戦後、東大の総長を務められた南原繁先生や矢内原忠雄先生は、日本の社会科学研究の在り方を反省され、学部の枠を越えて社会科学を研究する総合研究所の必要性を感じ、いわゆる「社研」を創設されたのです。台北帝大、京城帝大などから帰られた先生方を引き受けるという意味もあったようです。

社会科学研究所にソ連研究の講座が設けられ、主任教授は山之内一郎先生(ソヴエト法)、助教授は字高先生(ソヴェト経済)、助手は藤田勇先生(社会主義法)でした。こうして東京大学に開学以来初めてソヴェトを専門に研究する講座が生まれたのです。蛇足ですが、矢内原さんや南原さんは大変な理想主義者であり、新制東大の大学院創設に際して、文系は社会科学研究科と人文科学研究科の二つにまとめ、学部セクショナリズムの除去、総合の重要性に留意したようです。専門課程の「国際関係論」を含む教養学部の創設も両先生の功績です。以上、社研や大学院や教養学部の話はみな、師匠の一人である江口朴郎先生の話の受け売りです。

私はこの字高先生を知り、一九五九年四月、つまり六〇年安保闘争の前年に東京大学の大学院に入り、先生の教えを直接受けることになりました。字高ゼミには、マルクス経済学を研究するグループ(旧制東大の経済学部大学院、新制東大の大学院社会科学研究科経済学專攻)とソヴェト経済を学ぶグループ一新制東大の大学院社会科学研究科国際関係論專攻)の二つの流れがありました。前者には三輪昌男(国学院大学)、古川哲(法政大学)、岡崎栄

松(立命館大学)・堀晋作(国学院大学)、高山満(東京経済大学)、大島雄一(名古屋大学)、南克巳(千葉大学)、二瓶敏(専修大学)、海道勝稔(神奈川大学)などの諸先輩がおり、後者には旧制出身の佐藤経明(横浜市立大学)先生を別格に、新制の門脇彰(同志社大学)、斎藤稔(法政大学)、荒田洋(国学院大学)などの先輩がおりました。同期では伊木誠(國學院大學)氏や藤井速実(東京経済大学)氏が経済学を、木村英亮(横浜国立大学)氏がソヴェト地域研究を選びました。ロシア・ソヴェト・東欧関係の後輩には、岡田進(東京外大)、和田春樹(東京大学)、南塚信吾(千葉大学)、小山洋司(新潟大学)の諸氏がおり、日米関係論が専門の油井大三郎(東京大学)氏も宇高ゼミ出身です。

私は地域研究としてソヴェト経済を専攻することにしました。先輩や同輩は、ソ連の農業問題や工業問題、中央アジア地域、東欧地域などにそれぞれ研究対象を絞っていきました。私はというと、専門を充分に絞りきれないまま大学院に進みましたが、レーニンの新経済政策(ネップ)論や過渡期論、社会主義と商品生産の関係に関心を持つようになりました。大学院では社研の高橋勇治教授(中国政治論)や古島和雄助教授(中国経済論)の演習に出席し、近現代の中国社会について学びました。大学院経済学専攻の横山正彦教授の原典研究「剰余価値学説史」にも参加し、ドイツ語の原典研究の厳しさを学びました。私の修士論文は、「社会主義のもとでの商品生産に関する一考察−ソ連における一九五〇年代の論争」でした。

日本の大学のソ連経済研究ですが、一九四五年の敗戦後、一橋大学経済研究所の野々村一雄、岡稔の両教授のもとから、多くの研究者が育ちました。藤田整先生(大阪市大)もその一人であり、著書「社会主義経済と価値法則」(日本評論社・一九六七年)は、われわれに衝撃を与えました。京都大学経済学部の木原正雄先生のもとから、これまた多くの研究者が育ちました。長砂実(関西大学)、芦田文夫(立命館大学)、小野一郎(立命館大学)、岩林(松山大学)、、上島武(大阪経済大学)、井手啓二(長崎夫学)、建林隆喜(大阪経済大学)、保坂哲郎(高知大学)、佐登史(京都大学)などの諸氏です。上鳥武君が高校同期ということもあり、木原先生の門下の人びとと交流ています。一〇年ほど前から犬崎平八郎先生(横浜国立大名誉教授・ソ連農業論)の知遇を得ることができ、その影響で現在私は、日本ユーラシア協会(旧日ソ協会)神奈川県連合会の会長をしています。

一九五〇年代の後半から六〇年代は、いわゆるスターリン主義批判が盛んになる時代です。従来からの正統派の系譜、すなわちレーニンからスターリンに連なる系譜とは別に、レーニンからトロツキ−に連なる系譜に対する関心が高まった時期でした。多く青年・学生が、トロツキー−スターリンを批判し、ソ連の在り方を披判して国外に追放され、最後に殺書された−が何を言い、何を考えていたのか知る必要があると考えました。ソ連ではトロツキーのものはすべて禁書になっていました。また邦訳文献もほとんどなかったので、フランスを中心に国際的に活躍していた第四インターの出版物や海外に持ち出されたトロツキーの論文を翻訳する必要があるということで、私にも翻訳グループに参加しないかと勧誘がありましたが、参加できませんでした。

この時期、ソヴェト社会主義は無誤謬であり、マルクス・レーニン主義の正統の道を歩んでいるのだと言うそれまでの考えが大きく揺らぎ、マルクス・レーニン主義、すなわちスターリン主義の克服をめざす動きが活発になっていったのです。すぐ後でふれる学生時代の冨岡倍雄さんは、島成郎、生田浩二氏などとともに、一九五〇年代の後半、ブント(共産主義者同盟)という新しい組織を東大など全国の犬学に立ち上げ、スターリン主義のソ連とは違う社会主義の実現をめざす運動を始めたのです。

 

■−神奈川大学の経済学部に来られてから、各国経済研究会が作られていく過程をお話しださい。

中村−神奈川大学には、一九七〇年に富岡倍雄先生と同時着任です。富岡さんは東京大学助手、私は本州大学(現長野大学)経済学部助教授からの転勤です。七三年四月に梶村先生が神大に来られました。また後藤晃先生が一九八一年、松本武祝先生が一九九一年に着任されました。六〇年安保全学連の理論的指導者であった富岡倍雄(一九二九−九八年)さんのことは、著名であったため、院生時代から名前は知っておりました。梶村秀樹(一九三五−八九年)さんのことは、国際関係論時代の友人太田(法政大学・中国政治論)君から、「凄いやつだ」という話を聞いておりました。

しかし、お二人に面識はなく、神奈川大学で親しくなりました。富岡先生は新興国経済・社会科学論、梶村先生はアジア経済・朝鮮史、それに私がソヴエト経済・社会主義論ということで、研究会でもやろうかということになりました。卒業生や有識者がわれわれの大学院で再度勉強したいということもあり、共同研究が立ち上がっていったのです。冨岡ゼミ出身で社会人から大学院にきた新納豊(大東文化大学)君は、朝鮮経済研究、内田芳明ゼミ出身で、同じくサラリーマンを経験後に大学院でタイ経済研究をめざした丸岡洋司(神奈川大学、一九九九年死去)君、冨岡ゼミ出身で学部から大学院にきたインド経済研究の篠田隆(大東文化大学)君、マレーシアからの留学生で中国文化を専攻の鄭新培(大東文化大学)君、私のゼミ出身で中国経済研究の鈴木義嗣(神奈川夫学付属校)君などが初期の院生です。苦労に苦労を重ねて、大学院に各国経済資料室を置き、また院生と月例研究会ができるようになりました。アジア経済研究所の若手研究者などにも経済学部の非常勤講師にきていただき、講義後に資料室によっていただき院生の指導をお願いし、また研究会に出席していただきました。

そうした先生方は、後に一家をなしました。たとえぱ、小島麗逸先(大東文化大学).中村尚司先生(寵谷大学)、村井吉敬先生(上智大学)、平川均先生(名古屋大学)、石原享一先生(神戸大学)、金子文夫先生(横浜市大)、坂井素思先生(放送大学)であり、わたしどもの院生や共同研究室を育ててくださいました。この他にも、他大学に移籍した聞宮陽介先生一京都大学)、大瀧雅之先生(東京大学)、伊藤修先生(埼玉大学)が各国経済の院生の面倒をみてくださいました。感謝申し上げなければなりません。

各国経済研究会の第一期の研究成果は、冨岡倍雄・梶村秀樹編『発展途上経済の研究』(世界書院・一九八一年)、梶村秀樹他編『韓国経済試論』(白桃書房・一九八四年)として公刊されました。両書には院生時代の新納、篠田、鈴木の論文が掲載されており、各方面から注目されました。また中国・吉林省社会科学院の金泰相教授が梶村さんの尽力で神奈川大学に研究員としてみえられたので、各国経済の教員を中心に研究会をもち、その成果を金泰相・梶村秀樹編『日中経済交流の現状と展望』(白桃書房・一九八九年)にまとめました。

科学研究費はこの一五年間に四度とりました。けしからん話ですが、東大や京大の連中はいとも簡単に科研費をとります。私たちは何度も何度も落ちました。科研費による共同研究の成果として市販の書物にまとめたのが、冨岡倍雄.中村平八編『近代世界の歴史像-機械制工業世界の成立と周辺アジア』(世界書院・一九九五年)です。これにも院生時代の藤村是清、菅原昭、山本博史、大黒聰が執筆しています。

神大の各国経済出身の経済学博士には、次の諸君がおります。韓国からの留学生李洪洛(韓国・韓一大学教授一、博士論文『日本帝国主義下の朝鮮民族経済』(未公刊・一九九二年度学位授与)。同じく韓国からの留学生の朴根好(静岡大学助教授)、博士論文『韓国の経済発展とベトナム戦争』(御茶の水書房・一九九三年)。河明生(法政大学非常勤講師)、博士論文『韓人日本移民社会経済史-戦前編』(明石書房・一九九七年)。山本博史(茨城大学助教授)、博士論文『タイ糖業史i輸出大国への軌跡』(御茶の水書房・一九九八年一。菅原昭(神奈川大学非常勤講師)、博士論文『タイ近代の歴史像-地域経済と在来市場』(白桃書房二一〇〇〇年)。韓国留学生の金日植(韓国二只畿大学専任研究員)、博士論文『企業の規模別投資行動と経済効果に関する研究-韓国の事例』(未公刊・一九九八年度学位授与)。柳澤和也(神奈川大学専任講師)、博士論文『近代中国における農家経営と土地所有−一九二〇〜三〇年代華北・華中地域の構造と変動』(御茶の水書房・二〇〇〇年)

初期の院生の一人篠田隆(大東文化大学教授)君も、長年の研究を『インドの清掃人カースト研究』(春秋社・一九九五年一にまとめ、神奈川大学から経済学博士の学位を授与されました。海道ゼミ出身の立石昌広(長野県立短大助教授)君は、各国経済研究会に顔をだし、やがて研究テーマを変え、北京大学に留学して、学位論文『中國的服務経済』(中国広播電視出版社・一九九一年)をまとめ、北京大学から経済学博士を授与されました。他大学院所属では中国東北出身の金洪云(中国人民大学助教授)君も、各国経済研究会で学び、「農業経営と社会化サービス」という論文で、一九九四年に東京大学から農学博士の学位を授与されています。

 

■−一九六〇年代から本格的なソ連研究を始められますが、先生のその頃の問題関心や、研究状況はどのようなものだったのですか。

中村−神奈川大学以前のことを少しお話ししましょう。六〇年安保ですが、大学院の国際関係論自治会は東京大学教職員組合(東職)と行動をともにするということで、樺美智子さんの死後には全学連の諸君から「お焼香デモ」と椰楡されるデモをしました。東京大学全学大学院生協議会(東院協)の指導権やデモ形態をめぐって、加盟自治会問に激しい議論がありましたが、東院協は上部団体ではなく協議会であり、加盟自治会を拘束するような決定を

してはならない、というのが多数意見でした。私もそうですが、若干の若手院生は、東職のデモに満足できず、全学連傘下の学部自治会のデモに個人的に参加することもありました。

政治の季節は終わり、一九六四年に博士課程を終わったのですが就職がありません。「国際」ばやりの現在とちがって、一九五〇年代から六〇年代、日本のアカデミズムでは国際関係論は認知されておらず、われわれ国際関係論出身者はうさんくさい存在だったのです。国際関係論の友人たちは、法学部、文学部、経済学部、人文学部、社会学部、教養部などの引っかかりそうな公募科目にかたっぱしから応募するのですが、はねられる、落ちる。私の場合、先輩の古川哲先生(法政大学)の斡旋で、一九六八年四月、新設の本州大学経済学部の専任講師になることができました。

私たち国際関係論の院生は、それぞれの指導教授のほかに、歴史家の江口朴郎先生(一九一一−八九年一の影響を受けて育ちました。先生のことを、先輩たちは「朴さん」、私たちは「江口さん」とよんでいました。院生は、貴重書の貸与やアルバイト、就職の世話など、なにかと江口先生のお世話になりました。江口朴郎門下の同期のサムライたちは、国際関係論は学問として成り立つのか、地域研究に独自の方法論があるのか、などといった熱い議論をし、江ロゼミの歌「インターナショナル」をどなるように唄い、不遇の時代を過ごしました。サムライたちとは、加茂雄三一青山学院大学・中南米近現代研究一、栗原優一神戸大学・ドイツ近現代研究一、新川健三郎(東京大学.アメリカ近現代研究)、初瀬龍平(神戸大学・国際関係論)、太田勝洪(法政大学・中国近現代研究)、中西治(創価大学・国際関係論)、木村英亮(横浜国立大学・中央アジア近現代研究)などの諸君であり、その後職もみつ

かり、それぞれの専門分野でよい仕事をしています。

本郷の元島邦夫(埼玉大学・社会学)氏の世話で、東京都講師という職にありつき、都立の看護專門学校で看護婦さんの卵に一般教養を教えることになりました。大学院に身分はありませんでしたが、駒場の江口先生の演習に参加するとともに、前記の元島氏を中心に院生で現代社会科学研究会を立ち上げました。今から見ると豪華なメンバーです。会員は、田崎篤郎(東京大学)、古城利明一中央大学)、玉水俊哲(専修大学)、二瓶剛男(東京大学)、塚本三夫一中央大学一・佐野勝隆一名古屋大学一、斎藤治子一帝京大学一、石川晃弘一中央大学一、田中義久一法政大学一・庄司興吉一東京大学一、警伸子一都一美学一、福田喜三嚢大学一、吉原功一明治学院大学一、杉森創吉一隻事業大学一・川崎嘉元一中央大学一、矢沢修次郎一一橋大学一、馬場修二東京大学一、大倉秀介一和歌山大学一、上原一慶一京都大学一・山縣弘志一駒沢大学一などの諸君です。この研究会で私は相当鍛えられたような気がします。年少ではあるが田中君や庄司君は文字どおりの秀才であり、同輩の田舎者で人のよい佐野勝隆君などが「また○○にやられた」などと、研究会後の酒席でこぼしていたことを想いだします。悲しいことに、佐野、福田、杉森、馬場の諸君は研究途上で倒れてしまいました。

江口先生や上記の友人の影響もあって、私のソ連社会主義観が次第に固まっていきました。ソ連社会主義を相対化し、ソ連社会主義の世界史的位相について考えるようになったのです。一九六三年から六四年にかけて行われた中国共産党とソ連共産党のあいだの公開論争も、自分の頭で考又ることを要求しました。スターリンの評価をめぐって中ソ両共産党間に対立があることは知っていましたが、それが全面論争に発展し、中国共産党中央の論文「ソ連共産党指導部とわれわれとの意見の相違の由来と発展」やフルシチョフのえせ共産主義とその歴史的教教訓」ど九本の論文は、ソ連の「平和共存路線」や議会の道を通ずる社会主義への「平和移行」論「全人民の党」・「全人民の国家」論を、「現代修正主義」であると批判しました。また一九六八年の「プラハの春」に対するソ連の軍事介入後は、ソ連を「社会帝国主義」と規定するに至り、中ソは国家対立の局面を迎えました。「プラハの春」といえば、ソ連の軍事干渉に反対して、小山洋司君らと露文の抗議文をつくり、本郷の郵便局から書留でソ連共産党中央委員会に送りました。

私たちは、ソ連共産党や中国共産党の公式見解の代弁者であることをやめ、自分の頭で考えざるをえなくなったのです。この論争で私の関心を引いたのは、いわゆる中ソの「過渡期」論争です。中国共産党は、通説であるソ連説とはちがう「過渡期」論を主張しました。当時の中国の過渡期論は、後に「大過渡」論と呼ばれるのですが、杜会主義革命の勝利から共産主義の高い段階、すなわち狭義の共産主義社会に至るまでの期聞を「過渡期」とし、この期問、終始階級が存在し、階級闘争が存在するので、プロレタリアート独裁を堅持すべきである、と主張しました。これに対して、ソ連共産党側の公式見解は、社会主義革命から共産主義の低い段階、すなわち社会主義社会までが過渡期であるという「小過渡」論でした。

中国共産党もソ連共産党も、マルクスの『ゴータ綱領批判』における過渡期論と、共産主義社会の二つの発展段階論とを下敷きにしていました。ソ連共産党の見解では、一九一七年のロシア革命から一九三〇年代半ばまでが「資本主義から社会主義への過渡期」ということになり、三〇年代半ば以降は、「共産主義の低い段階としての社会主義社会」ということになる。一九三六年のいわゆるスターリン憲法の採択、そして三七年の第二次五カ年計画の終了が画期のメルクマールです。これに対して中国共産党は、社会主義社会も過渡的社会であることを強調し、たとえ社会主義国であっても、修正主義指導部がその国の権力を纂奪すれば、資本主義や帝国主義への変質がありうる、ソ連ではフルシチョフ指導部のもとでこの変質が発生した、したがって、ソ連や世界の労働者階級、社会主義者や共産主義者は、ソ連フルシチョフ指導部の打倒のための革命に決起しなければならない、ということになるのです。

私は、中国の過渡期論にもソ連の過渡期論にも同意できない、という立場でした。マルクスやレーニンの論文の読み直しを通じて、60年代後半には、先進国革命論理の二つがある、という考えに行き着いておりました。世間に知られているのは先進国革命の理論であり、マルクスの後進国革命論関連の論文は、完成度も低く政治評論に過ぎないということで、無視ないし軽視されてきたのです。アイルランド問題やポーランド問題、インド論や中国論、なによりもロシアのヴェラ・ザス−リチへの返書草稿などで、マルクスは、未完に終わった後進国革命理論の構想を述べています。当時、岡山大学の淡路憲治氏がマルクスの後進国革命の理論に関する論文を大学の紀要に発表しており、わが意を得たりでした(淡路憲治『マルクスの後進国革命像』未来社・一九七一年)。この時期、毎日新聞杜の雑誌『エコノミスト』も「過渡期論」の連載特集を組み、第一線のソ運経済研究者や中国経済研究者が寄稿しています。

私の資本主義論は世界資本主義論です。欧米の先進資本主義は、支配的資本主義として、一八世紀後半以降、世界をつくり変えていきます。アジア、アフリカ、アメリカ(北米を除く)、大西洋.太平洋島所嶼地域は、従属的資本主義に編成され、世界資本主義に包摂されていきます。一九世紀のロシアや中国も、支配的資本主義の統轄のもと、従属的資本主義に編成され、世界資本主義に組み込まれます。従属的資本主義国ロシアで社会主義をめざす革命(一九一七-二二年)が勝利したのですが、支配的資本主義が統轄する世界資本主義体制のもとで、ソ連社会主義、つまり従属的社会主義の生成・展開が始まるのです。

 

■−いうことは、一九三〇年代段階のソ連は世界資本主義に従属していたということですか。

中村−そうです。一九九一年のソ連崩壊まで、ずっと世界資本主義に包摂され、支配的資本主義に従属していました。一時中国で「東風は西風を圧倒する」とか「アメリカ帝国王義は張子の虎」などと言われたことがありますが、それは政治的に誇張されたスローガンです。一九四九年に成立した中華人民共和国もまた従属的社会主義であり、支配的資本主義の統轄する世界資本主義に包摂されていたし、現在も包摂されています。

 

■−ソ連のお話の前に、ロシア革命について伺いたいと思います。ロシア革命については様々な見方があると思いますが、積極的に評価すべき点は何処にあるのでしょうか。

中村−ロシア革命は、従属的資本主義における世界で最初の「社会主義」の実現を目指す

革命であったという点で、評価できます。ロシアでの革命は、従属的社会主義の建設、この用語がまずいとすれば、「発展途上国社会主義」の建設をめざしました。ソ連や中国の社会主義の評価に関して、「真の社会主義」とかその裏返しの「えせ社会主義」という見地からの高踏的批判自体が間違っています。世界資本主義の二〇世紀段階に、「社会主義をめざす社会革命」が起こり、従属的社会主=発展途上社会主義が生成・発展し、結局のところロシアでは失敗し、中国では現在元気よく運動しています。

一九世紀マルクスの先進国革命論にもとづく過渡期諭も、共産主義社会の低い段階としての社会主義社会論も、当然のことながら、後進的従属資本主義国であるソ連や中国に生まれた社会主義には当てはまらない理論です。ロシア革命や中国革命の後に生まれた中ソの社会経済体制は、中国流の言葉を借りれば、二〇世紀の「新生事物」であり、先入観にとらわれずに、客観的事実に即して、基本的性格や発展段階を考える必要があります。理念でしかないマルクス的共産主義の高みから、あれもおかしい、これもおかしい、と発展途上社会主義=従属的社会主義を批判するのは間違っています。形容詞なしの「社会主義」への到達を長期的視野に入れていたソ連などの社会主義、現に視野に入れている中国などの社会主義、として評価すべきでしょう。

われわれ日本人にとつて、ロシア革命やソ連社会会主義、中国革命や中国社会主義をどのように評価するかは、大きな問題の一つです。日本では敗戦後の昭和二〇年代から三〇年代、正確には一九六〇年安保の頃までは、マルクス主義者のグループと大塚久雄・丸山真男・日高六郎などの近代主義者のグループとが結果的に連係して、ロシア革命やソ連社会主義、中国革命や中国社会主義を擁護してきたのではないかと思います。日本共産党や社会党なども、一九五〇年代から六〇年代、ソ連や中国の共産党やその社会体制をほめることはあっても、けなすことはありませんでした。それは、日本が侵略したアジア諸地域の民族が、ロシア革命や中国革命に鼓舞されて、日本帝国主義打倒闘争を戦い抜き、民族の独立を勝ち取ったという、歴史を見ていたからでした。しかし、六〇年安保頃を契機に状況は変わり、日本の労働界、インテリや若手研究者の問に転換が起こり、ソ連や中国の評価、マルクス・レーニン主義の評価、さらには社会主義の評価は、下降の一途をたどることになるのです。

議論を元に戻しましょう。周知のように、一九世紀の第一インターナショナルのスローガンは「万国のプロレタリアート、団結せよ」でした。二〇世紀の第三インターナショナル(コミンテルン)は「万国のプロレタリアートと被抑圧民族、団結せよ」というスローガンを掲げました。これはまだレーニンが健在であった時代の提起です。「プロレタリアートと被抑圧民族」の「団結と解放」いう考えが登場しました。このことは、明らかに二〇世紀マルクス主義の前進です。

一九世紀後半から二〇世紀の初めの第一次世界大戦頃までが、支配的資本主義である欧米帝国主義の植民地支配の全盛期であったと言ってよいと思います。ロシア革命から生まれたソ連政権は、この国際帝国主義に建国当初から包囲・封鎖されていました。そこでソ連共産党やコミンテルンは、国際帝国主義のソ連包囲網を打破するために、アジアの民族解放運動を支援することに決めたのです。ソ連共産党やコミンテルンは、民族解放革命や杜会主義革命をめざす勢力・人材の育成に努めました。中国、インド、ベトナム、朝鮮、日本等に共産党が組織されました。したがってアジアの革命家は、最初からソ連やコミンテルンの権威を認め、その指導のもとで活動することになりました。当時、アジアの革命家たちが、独自に民族固有の政党、たとえば共産党をつくり、独自に民族解放革命を展開するという条件や力はなかったのです。

やや脱線しますがコミンテルンに関連して、私には気になる問題があります。コミンテルンおよび日本共産党の指導者の一人であった野坂参三の問題です。日本共産党は非合法であり、弱小勢力であり、ついにはすべての幹部党員が獄中にあった一九四五年以前、コミンテルンと日本共産党の関係では、もちろんコミンテルンが力を持っていました。壊滅状態の日本共産党の海外在住党員である野坂は、コミンテルンの指示を受け、中国で活動しました。

国際関係の在り方がまったくちがう現在の不破哲三体制下の日本共産党は、日本国籍の共産党ということで、野坂参二のコミンテルン時代の活動についてまったくのマイナスの評価です。私は、日本共産党の公式党史の最新版を読んでみましたが、がっかりしました。野坂は、日本人民を裏切った人物であり、ソ連共産党とコミンテルンに忠誠を誓った人物である、と描かれています。そして死後除名の処分を受けたのです。野坂の共産主義者としてのスタートはイギリス共産党員としてでありましたし、ドイツ人・イギリス人・フランス人・フィンランド人・ハンガリー人などでロシア共産党員として活動した人物も多数います。またヨーロッパ諸国の多くの共産主義者がコミンテルンの権威を認め、その指導のもとにありました。

マルクスは、世界革命はヨーロッパ先進国同時革命として始まると考えており、「万国のプロレタリアート、団結せよ」と言いました。レーニンも「ロシアは世界プロレタリア革命の突破口を開いた」と述べ、国別・民族別の共産党など考えておりませんでした。ロシア革命後、事実の問題として、ソ連は世界革命のセンターだと考えられ、野坂は、ソ連とソ連を指導するソ違共産党の指導性に疑いを入れませんでした。そうした共産主義者は世界中にいくらでもいたのです。共産党とか共摩王義者には、今日のような国籍原則といったものはなかったのです。

マルクスの期待に反して、支配的先進資本主義国では革命は起こらず、結果として従属的後進資本主義国ロシアで革命が勝利しました。このロシアの共産党が世界共産主義運動の指導権を握るに至ったことは、歴史的事実です。野坂の評価の問題は、この点を考慮に入れる必要がある、と私は考ております。日中戦争の時代、戦線の日本軍兵士に反戦を訴えた野坂の中国における活動は、正当に評価されなければなりません。日本の敗戦後、老コミュニストの河上肇博士は、野坂の日本帰国を祝って一編の詩を彼に捧げました。野坂の日本帰国後の活動についても、評価すべき点は多々あると考又ます。無誤謬の党がないのと同様に、無誤謬の党員などおりません。

本題に戻りましょう。ロシア革命の性格規定の問題について、旧ソ連史学では「社会主義革命」とし、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。似たような表現ですが、この違いは重大です。十月革命を「社会主義革命」と規定する立場からは、それに先立つロシア帝国時代が「発達した資本主義」、すなわち国家独占資本主義であったということになります。事実、スターリン主義のソ連史学は、ロシアにおける産業革命の時期とか、産業資本の確立の時期とか、独占資本の成立の時期とか、帝国主義段階への移行の時期とかを盛んに問題にし、ロシアにおける「社会主義革命」の勝利の必然性を論証しようとしました。あたかもロシア異本主義が「支配的先進資本主義」であるかのような詐術を行ったのです。これは決定的な誤りです。十月革命をマルクスの先進国革命論でいう「社会主義革命」と性格規定すると、この時点から「社会主義への過渡期」ということになります。「過渡期」が終了すれば、マルクス的な「共産王義の低い段階」、レーニンのいう「社会主義」ということにならざるをえません。スターリン史観の「過渡期」論および「社会主義」論は、最初から最後まで誤りです。

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。この点をめぐって国号論争が起こりました。神戸大学の森下敏男教授の研究によれば、さまざまな国号が提起されました(森下敏男『ソヴェト憲法理論の研究』創文社・一九八四年)。この論争のなかで、「ユーラシア・ソヴエト社会主義共和国」という国号案もだされます。一時はレーニンもそれに傾きましたが、し

かし最終的には国名・地域名は一切入れないほうがよいということになり、「ソヴェト杜会主義共和国連邦」という国号に落ち着きました。「ソヴェト」は地名ではなく、ドイツ語のRate、日本語に訳すと「会議、会議体、評議会、議会」に相当する用語です。Colo3を英語圏ではUnion、日本の研究者の多くは、「連邦」と訳しました。今となると、これには一理あり、私も「連邦」という訳語に賛成し、これまでの自説を取り下げたいと思います。

ロシア語のColo3…、英語のunionは暖昧語の一つです。それは、はからずも一九九三年一一月に発足したEurpean Union(邦訳は「ヨーロッパ連合」)の性格規定をめぐって発生しました。清水貞俊教授(立命館大学)によれば、国家結合形態としてのUnionには、「UnionFederation」という見解と、「Unionにはには連邦的(federal)Unionと連合的(confederal)なUnionとがある」という見解があるそうです(清水貞俊『欧州統合の道』ミネルヴァ書房・一九九八年)

一九二二年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家のconfederal(連合)形態もしくは同盟形態を主張するレーニン派と諸ソヴェト国家のfederal(連邦)形態を主張するスターリン派の対立です。病床にあったレーニンは発言できず、論争はスターリンとウクライナの代表とのあいだで行われました。ウクライナは、(confederal)を主張しました。(confederal)であれぱ、ウクライナは独自に外務省とか貿易省をもち、ウクライナの国益を実現するこ

とができるからです。これに対してスターリンは、(federation)、すなわち「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一のColo3国家」を主張しました。

Colo3Union)は、前述のEuropean Uninoの場合と同じく、(federation)とも(confederation)とも解釈できる暖昧さを持っていたのです。結局、当時の論争では、「Colo3は(federation)連邦である」とするスターリン派が勝利しまし「連合である」というウクライナ派は負けたのです。ソ連という国のなかでウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、西側帝国主義国の強夫な軍隊にソ遵は包囲されているのだから、ソ連政権は存

続できないという理屈で、一九二二年一二月に、国号は「ソヴェト社会主義共和国連邦」に決まりました。

 

■−ボリシェヴィキの成り立ちと、それがロシア革命や内戦で果たした役割、そして以後のスターリン主義が勝利して行く過程をお話しください。

中村−ロシアの共産主義者は、一八九八年にロシア社会民主労働党を結成しますが、それはまだサークルのようなものでした。次第に党員も増えていきましたが、一九〇三年にメンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂し、両者は違った路線を歩みながら一九一七年の革命を迎えます。ボリシェヴィキは、一九〇三年から数えればわずか一四年で、一八九八年から数えれば一九年で、国家権力を握りました。

一 九一七年二月、ニコライニ世が退位しますが、皇位継承権のある皇族がすべて皇帝就任を辞退するという異常な事態が起こります。やむなくケレンスキーを首斑にする臨時政府が成立、二月革命(新暦三月革命)です。当時の民衆の要求は、「平和と土地とパン」であり、ドイツとこれ以上戦争して労働者や農民が死ぬのに反対でした。

一八六一年の上からの農奴解放とその後の農業改革は、まったく不徹底なものであり、地主は依然として優等地を多く所有し、隠然たる勢力を保っていました。農民に有償で払い下げられたのは劣等地であり、農業問題は解決されていませんでした。農民の不満はずっと続いていました。それで、一九一七年の二月革命後、ロシアの農民たちは土地を実力で自主分配し始めました。それまで、ロシアの農村で活動し、農民に影響を持っていたのは杜会革命(エスエル)党です。この党が農民の土地分配を支持し、支援しました。ボリシェヴィキやメンシェヴィキは、都市の労働者や知識人を基盤にする政党であり、農村には基盤はなく、広大な農村は社会革命党の影響下にありました。二月革命後、農民は寄合をもち、土地の分配を始めたのです。もう警察も誰もそれを止めることは不可能でした。

臨時政府は、ドイツとの戦争に最後は勝てるという見通しであり、戦争は継続です。また農民たちの土地要求に応えることができませんでした。臨時政府は、憲法制定議会を召集して、そこで討議してから対応するというものでした。もう都市には配給すべきパンや穀物はなく、「パンよこせ」という市民の声は日増しに高まり、臨時政府反対、「すべての権力をソヴェトヘ」の勢力が力を増していきます。運動組織としてのソヴェトのなかで、ボリシェヴィキが次第に主導権を握り、新暦一一月七日に革命が起こり、臨時政席が打倒され、総ての権力がソヴェトに移管されました(十月革命)。ソヴェト政権が最初に採択した法律は、「平和に関する布告」と「土地に関する布告」でした。「土地に関する布告」は、社会革命党の案です。ところで、土地の配分自体は社会主義の政策ではありません。そんなわけで、新暦三月から一一月の期聞、ロシアの民衆が望んでいたのは、「平和と土地とパン」であって、「社会主義」ではなかったことを確認しておくことが重要です。

ソ連崩壊後、ロシア史というか、自国史の書き換えが行われています。ソ連時代の歴史の本、とくに近現代史の本は、教科書も含めて、読む人がいなくなったのです。

現在ロシア連邦で使われている歴史の教科書をいくつか読んでみましたが、ある本では十月革命について、***** 、つまり「激変・転換・変勲・変革」という意味の言葉が使われ、(革命)という用語は使つていません。「一〇月の変革」とでもいうことになるのでしょうか、そしてほとんどすべての教科書が、旧ソ連のことを(totalitarianism)つまり全体主義体制の国としています。ソ連邦の消滅で歴史の書き換えが起こったのですが、ちろんそれは当然のことです。モンゴル−トルコ系の人々の国、たとえばトルコ系住民から成るタタールスタンや、アジア系のザカフカス諸国、トルコ系・ペルシア系の実アジアなどの国で、どのような自国史の本がでるのか楽しみにしています。

 

■−国内戦争期をどう捉えたらよいのでしょうか。ボルコゴーノフなどは、この戦争のなかで、レーニンやトロツキーが多くの銑殺命令などを連発し、暴力主義と粛清の悪い伝統が作られたなどとボリシェヴィキを徹底的に批判しておりますが。

中村−「悪い伝統」がつくられたとすれば、事実つくられたのですが、国内戦争の時期ではなく非合法活動時代、つまり結党以来の二〇年問の時期すべてを間題にすべきです。帝政ロシアの革命家は、スパイや裏切を警戒し、命を賭して帝政打倒の活動に従事していたのです。味方以外は敵という考又方、鉄の規律の党ができました。

国内戦について言えば、一九一八年春から、生まれたばかりのソヴェト政権は、赤衛軍を創設して白軍や一四もの外国の干渉軍と戦いました(日本もシベリア支配をめざして出兵)。軍事人民委員(軍事大臣)のトロツキーは、特別列車で戦場を駆けめぐり、兵士を激励して歩く、まさに殺すか殺されるかの戦争が行われました。戦争に人道的な戦争、慈悲・寛容の戦争などありません。古今東西すべての戦争がそうです。ボルコゴーノフの説には賛成できません。

元に戻りますが、ロシアの革命を考える時、党員たちの置かれた特殊な歴史的環境を考慮に入れざるをえません。ロシア社会民主労働党一共産党)の時代、最大の時でも党員の数は四万人(人口一億二〇〇〇万)ほどでした。共産党員になるということは、帝政下では大変危険なことで、ツァーリズムから国事犯として徹底的な追及を受け、弾圧されました。レーニンやジノヴィエフのように長く亡命生活を送る人も多く、またスターリンのように流刑中であった者、獄中生活の者はさらに多かったのです。これら四万人の党員が、ソ連時代になって「古参ボリシェヴィキ」と呼ばれた人たちです。一九一八年から二一年の国内戦で、多数の古参ボリシェヴィキが死にました。しかし、そのことがかえって古参ボリシェヴィキの威信を高めることになったのです。

党の歴史も党員の年齢も若いのです。だからこそ革命もまたできたのだと思います。一九一七年の革命の時、レ−ニンは四七歳、トロツキー三八歳、スターリン三八歳、亡命生活時代からレーニンと絶えず一緒だったジノヴィエフは三四歳、カーメネZ二一歳、ブハーリンは弱冠二九歳でした。このように若い人々が多かったのです。二〇代のプハーリンなどは、四〇代のレーニンを「〔(おっちゃん)」などと呼んだりしました。

レーニンは一九二四年に五四歳で亡くなりましたが、権力の座についたスターリンは、ほとんどの古参ボリシェヴィキを、三七年頃までに、粛清し尽くしてしまいます。こうしてスターリン神話がつくられてゆく条件が整います。スターリンはあの時レ−ニンに反対したとか、あの時卑怯な振る舞いをしたとか、レーニンはスターリンの党書記長就任に反対だったとかいうことを知っている古参ボリシェヴィキは、みんな姿を消してしまったのです。イギリスのスバイ、ドイツのスパイ、日本のスパイ、社余王義建設の破壊者という罪状で「人民の敵」というレッテルが貼られ、銃殺され、さもなければラーゲリ一強制収容所一に送られました。古参ボリシェヴィキの粛清と並行して、新たにノメンクラトゥ−ラと呼ばれるソヴェト官僚群が形成され、彼らがソ連の支配者になって行きます。一九三五年から三八年にかけて、ジノヴィエフ、カーメネフ、ルイコフ、トムスキー、プハーリン等の錚々たる指導者が次から次へと粛清され、それに代わって若い官僚層が台頭するのです。

■−そのノメンクラトゥーラといわれる官僚たちは、どのように形成されていったのでしょうか。

中村−一九二〇年代につくられたピオネール(一○歳から一五歳までの少年少女を対象とする組織)や、ピオネールを指導し自身の共産党への入党準備をするコムソモール(一四歳から二八歳までの青少年の組織)、共産党(一八歳以上)というエリートコースを通ってきた共産党員のなかから、ノメンクラトゥーラはリクルートされます。これらの人々が、ソ連共産党やソ連国家の要職に就き、スターリン体制を支えたのです。一党独裁体制のもとで、自己の能力の開花を希望する者は、共産党の門を叩くことになります。入党すれば、「党員は党の決定に従う」、「少数意見は多数意見に従う」、「下級機関は上級機関に従う」、「地方機関は中央機関に従う」といったいわゆる「民主集中制」の体制があります。こうして、スターリン主義の体制が確立したのです。

共産主義のもとでは、国家は死滅すると言われてきましたが、それとは全く反対のことが起こりました。スターリンは、社会主義建設が進めば進むほど階級の敵は最後の足掻きをして凶暴になるというのです。また帝軍王義に包囲されておりいつ攻撃されるか分らない、だからそれに備えてソヴェト国家を強固に建設しなければならない、強い国家が必要なのだ、とスターリンは国民に説明しています。また、スタ−リンの社会科学に関する四つの論文「レーニン主義の基礎について」、「刑訓濁的唯物論と史的唯物論について」、「ソ連共産党()小史」、「ソ連における社会主義の経済的諸問題」と、その解説書が膨大な量印刷されて全党員に配布され、入党の際の口述試験や、大学・専門学校の必修科目「ソ連共産党史」や「史的唯物論」、「政治経済学」の試験問題になって行く。このようにしてスターリン主義が国民に注入されていったのです。

しかも一九四一年から始まる独ソ戦争が、このスターリン主義の国家体制をより強固にして行くことになります。旧ソ連史学では、この戦争を「大祖国戦争」と命名しました。それまでに「大」のつかない「祖国戦争」があり、それは一八二一年のナポレオンとの戦争の名称でした。この戦争は、あのトルストイが『戦争と平和』で描いたように、ナポレオンがロシアに侵入し、モスクワを占領するという民族と国家の存亡をかけた戦でした。ロシア人は、これを「祖国戦争」と呼んでいましたが、それになぞらえて今度の戦争をスターリンは「大祖国戦争」と命名したのです。ナポレオンを破ったロシアの将軍たちを大いに称える映画、小説を作って戦意の昂揚を図りました。社会主義を防衛するというよりは、ロシア人の祖国が亡くなるかどうかが懸けられた戦争という意味合いが全面にださ

れたのです。ソヴェト愛国主義の教育も徹底して行われます。少年少女であるピオネールの誓いの言葉は、「いつにても祖国のために死ぬ用意あり」でした。こうして独ソ戦争が、スターリン主義をよりいっそう強化する役割を果たしたのです。

現在のロシアや中国の理論家は、スターリン体制を「軍事共産主義体制」と位置づけたらどうか、などと言っていますし、西側では、軍事経済とかcommand economy、つまり指令経済の国などと命名している人もおります。スターリン体制の下では、党と政府の連名の指令を実行する諸省が設けられ、党国家システムが完成してゆきました。ソ連共産党のなかにも国家政麻機構をコントロールする、アパラートと呼ばれる部局ができていて、ノメンクラトゥーラたちがアパラチキ(専従職員)の活動を指揮監督しました。

連邦政府の省の数は多いときには六〇、省と同等あるいはそれ以上の強い権限を持つ国家委員会も多いときには二〇もありました。ですから閣僚会議といっても、大臣が一〇〇人近くも出席する大規模なものになり、会議などできなくなりました。そこで効率よくやるために、主要閤僚会議が設けられました。主要閣僚会議はもちろんのことソ連政府そのものが、ソ連共産党中央委員会の決定には逆らえません。

人望があり、学業成績あるいは勤務成績のよい者が選抜されて党員になります。党員のなかから党政治局の厳しい審査をへて、ノメンクラトゥーラが選抜されます。たとえばエリツィン(ペレストロイカ時代にロシア共和国大統領、ソ連崩壊後ロシア連邦大統領)は、彼の回顧録を見ると、ウラルエ科大学建築学科に学び、現場の仕事なども経験するわけですが、マルクスやレーニンの理論などほとんど勉強しません。入党試験の時には、受験マニュアル本などで想定問答などを勉強して、入党を果たしました。エリツィンは、まずノメンクラトゥーラ予備軍の一員である共産党員になり、その後ノメンクラトゥーラ(定員があるわけではないが約四〇万人)に出世していきます。彼の経歴はスベルドロフスク州の党委員会のひら書記から始まります。同州の第一書記になり、ペレストロイカが始まると、中央に進出し、ついにソ連共産党中央委員会書記、さらに準政治局員にまでなります。ソ連大統領ゴルバチョフは、スタプロポリ地方の党第一書記になり、ノメンクラトゥーラ入りを果たし、中央委員会書記、政治局員、ついに書記長にまで出世します。共産党の第一書記のことを、エリツィンは回顧録のなかでその地方では絶対の権力を持つ「神」か「皇帝」であると述べ、ゴルバチョフは「"下賜された領地"の万能の支配者」であると書いております。

州とか地方には州ソヴェト、地方ソヴェトという議会が設けられており、その下の市、町、村にもそれぞれソヴェトがありますが、それらはほとんど何の権限もありません。二〇年ほど前にシベリアの小さな町を見学したことがありますが、そこでは共産党委員会とソヴェト一議会一が一つの建物のなかに入っていました。党の建物の部分は、党員の党費で建てたかというとそうではない。国のお金で党の建物を作っているのです。党がソヴェト(議会)を支配しているのです。さすがモスクワなどに行きますと、ソ連共産党中央委員会の建物とソ連最高ソヴェトの建物(国会議事堂)はいちおう別々になっていますが、田舎では区別がありません。党の決定や指令を追認するのがソヴェトの役割ですから、一緒の建物に入っているのは、合理的だとも与亭疋ます。また党役員とソヴェトの代議員とが同一人であることもあるし、代議員は党委員会が決めたのです。

ノメンクラトゥーラとマルクス主義、共産主義の関係ですが、こんな例があります。ヤコブレフというノメンクラトゥーラがいます。彼はカナダ大使をへて、ソ連最大のシンクタンクである世界経済国際関係研究所の所長を務め、さらに党中央委員会の宣伝部長、政治局員に出世し、最後にはゴルバチョフ大統領の主席補佐官にまでなった人物です。彼の著書の『歴史の幻想』と『マルクス主義の崩壊』は邦訳がありますが、それを読むと、彼は、マルクス主義を「誤謬に満ちた説教」、「共産主義の実現は幻想」と考疋るノメンクラトゥーラの共産党員でした。ヤコブレフのようなノメンクラトゥーラが多かったのではないか、と私は考えています。

 

■−スターリン主義体制の形成過程とその実態については、よく理解できましたが、ソ連の世界史に果たした積極的役割についてはどうお考えでしょうか。

中村−アジア・アフリカの被抑圧民族の民族解放運動にプラスの貢献をしたこと、ソ連内部では少数民族の文化的種族的な絶滅を防いだこと、これらは評価しなければなりません。識字率の向上や教育の重視、女性の杜会進出、労働者の労働条件の改善、社会保障制度など、西側の支配的資李王義が追随せざるをえない政策の実行がありました。これらも評価できます。

しかし、帝政ロシア時代のアジア系、イスラム系、トルコ系、ペルシア系、ユダヤ系などの少数民族に対する蔑視感、差別意識がソ連にも引き継がれ、また弾圧や迫害があったことも事実です。独ソ戦が始まると、クリミア・タタール族、ドイツ族、極東ロシアの朝鮮族などが有無を言わせず中央アジアヘ強制移住させられました。しかし、ソ連のマイナスの側面のみを指摘し、非難するのではなく、その積極面も見なければなりません。どうしてマルクスやレーニンの予測に反してスターリン主義が勝利していったのか、具体的な歴史過程に則して検証する必要があると思います。少数民族の問題、帝国主義の干渉の問題、国内戦や独ソ戦争の問題、満州国の樹立の影響など具体的な問題を、一つ一つ検証しなければいけない、と私は考えています。

■−スターリンの恐怖政治が出現した背景には、階級闘争、暴力革命、一党独裁を正当化する「マルクス・レーニン主義」と呼ばれた社会主義理論からきた契機と、帝政ロシアの政治的、歴史的、文化的な伝統に起源を持つものの、二つがあるかと思いますが、前者にっいて、どうお考えでしょうか。

中村−一九世紀のマルクス主義、二〇世紀のマルクス・レーニン主義あるいは毛沢東主義、一般にすべてのイデオロギーおよび理論は、その時代の歴史的規定と、地域や風土の規定を受けたイデオロギーであり、理論であると考えます。したがって、たとえばスターリンの階級闘争の理論、革命論、一党独裁論も、当然、たえず同時代の、これが大事ですが、後からではなく同時代の審問を受けなければなりません。しかし、「言うは易くして、行うは難し」でした。ソ連社会主義の歴史をみると、実行できませんでした。中国の場合はどうでしょうか。できるかできないかは、その国の民主主義の発展度、それに規定された政党の民主主義度に依存しています。

 

■−次に、スラウ民族の形成、ロシア帝国の成り立ち、その膨張過程、ロシア帝国の構造の特徴なとについてお話しを。スターリン主義へと連なって行く系譜がある、と私は考えるのですが。

中村−私も小林先生と同じように考えています。古代以来スラヴ族は、強い指導者がいなければ、アジア系牧農民に飲み込まれ、歴史のなかに溶解し、消えてしまったと思います。スラヴ民族というのは、大きく分けると、南スラヴ、西スラヴ、東スラヴの三つに分かれます。ロシアの西方に平原の国ポーランドやチェコ、スロヴァキアがあり、さらにその東に森の国ドイツがあります。ロシアの南方にはブルガリアやユiゴスラヴィアという国があります。ロシア人・ウクライナ人・ベラルiシ人は東スラヴ族、ポーランド人・チェコ人・スロヴァキア人は西スラヴ族、ブルガリア人・セルヴィア人・クロァチァ人は南スラヴ族と呼ばれます。

内陸アジアからポーランド平原にいたる広大な草原には、古代、アジア系の遊牧民がいました。河川や湖水の水辺では農業が営まれていました。ロシアという国の建国については、リューリク建国説が有力です。九世紀に、陸のバイキングであるワリャーギ(ノルマン)の子孫リューリクの三兄弟が東スラヴの地に招かれ、リューリクの子を擁したオレiグがキエフを占領し、リューリク朝を開いたという伝説です(キエフ・ルーシ建国一。以後、キエ

フ大公位はリューリクの子孫が継ぎ、キエフの分裂後、ロシアの公位は一六世紀にいたるまですべてリューリクの子孫が継いだと言われています。ルーシの生業は、遊牧、農耕、半牧・半農であったと思います。九世紀以前、すでにこの地域では、アジア系の遊牧民や農民が暮らしていました。新興勢力のルーシは、アジア系遊牧民と争ってきたのです。ドニエプル川の要衝キエフをとることで、ルーシの歴史が始まるのです。

ルーシに大きな影響を与えたのは、南のビザンチン帝国(東ローマ帝国)、ついで東のモンゴル帝国です。ドニエプル川を下っていくと黒海にでる、この海を横切って行けばコンスタンチノポリス^現在のイスタンブール)に着きます。このルートを使って、ロシアは言葉(キリール文字)と宗教一東方正教)をピザンチンから受け取ります。これは大きい。また商業貿易が盛んに行われました。ロシアからは奴隷、木材、號珀、蜂蜜などがビザンチンに、ビザンチンからは工芸品、書物、ワイン等が運ばれてきます。一次産品を輸出して、二次産品を買うのです。

一五世紀にビザンチン帝国が滅び、オスマン帝国がとって代りますが、ロシアから見るとこうした南方の、黒海から地中海方面は豊かで暖かく、憧れの地でした。古代から中世、スラヴ族の生活地域の気候は巌しく、農耕や牧畜は容易でなく、生活に適していません。それで早くからスラヴ族は、南方に移動し、バルカン半島やギリシア地方に入り、古バルカン人や古ギリシア人などと混血をしました。伝統的なロシアの南下策は、ピザンチン帝国やオスマン帝国の警戒心を呼びました。とくにロシア帝国時代に入ると、たびたび露土戦争が行われ、一八世紀半ばあたりからロシアが優勢になり、ついに黒海はトルコHイスラムの海から、ロシアH正教の海になります。

 

■−お書きしましたものを拝見すると、先生は、ロシアに対するモンゴル支配の積極的意義を強調しているように見えますが。東洋史の側からは、岡田英弘『世界史の誕生』(筑摩書房・一九九三年)、杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社・一九九七年)などが、モンゴル帝国を高く評価しています。

中村−同感です。私はロシア史研究者の側から考えてみたいと思います。ロシア人の書いたロシア史は、例外なく、モンゴルのロシア支配をマイナスに評価しています。帝政時代の史学、ソ連時代の史学もそうでした。新ロシア史学もそうです。モンゴル支配の離脱後、ロシアの知識人は、ロシァがアジアに属するのかヨーロッパに属するのか、という問題に苦しんできました。そして、一八世紀末か一九世紀初め頃から「脱亜入欧」願望、「蔑亜讃欧」意識が生まれてきたのではないかと思います。ロシアでは一八四〇年代から五〇年代に、「スラヴ派」と「西欧派」の論争がありましたが、「西欧派」の連中はまさに「脱亜()入欧」、「蔑亜()讃欧」でした。

モンゴル帝国時代のロシアですが、ロシア人はこれをまったく評価していません。アジア的専制主義の支配時代、残忍で冷酷・野蛮なモンゴルの支配、ロシアの発展を押しとどめたモンゴルと。二一四〇年から一四八O年までの二四〇年問をロシア人は「タタールのくびき」と呼び、ロシアは暗黒と停滞の時代を余儀なくされた、というのです。

歴史家の小林さんにお伺いしたいのですが、最近の日本や中国の歴史家はモンゴル帝国をどのように見ていますか。私見を述べたいと思います。モンゴル帝国は、戦争と破壊、殺薮と略奪に明け暮れしていたわけではありません。この帝国は、多くの民族・文化・言語・宗教を包みこんだ連邦国家であり、それぞれの国には遊牧民もおれば農漁民もおり、商人もおれば職人もいました。草原や砂漢、山地や平野があり、オアシス都市、河湖畔都市、港湾都市もありました。モンゴル帝国は重商主義国家、自由貿易国家でした。帝国の軍事的安全保障のもと、ジャムチ(駅伝制度)の整備、牌符(旅券)の発行、通行税^関税)の廃止、銀本位制の採用、紙幣「交妙」の発行があり、ウイグル商人やムスリム商人の「オルトク」という商拳不ツトワークを利用して、当時の地中海貿易をはるかに上回る規模のユーラシア国際商業を発展させました。

モンゴル帝国のヨーロッパ遠征軍の総大将は、チンギス汗の孫バトゥですが、彼はロシア、クリミア、ザカフカス、ポーランド、ハンガリーにまで軍を進めます。このときヨーロッパに、いわゆる「黄禍論」の種子が播かれます。バトゥは、兵をロシアに戻し、西北ユーラシア草原に住むトルコ系キプチャク族をモンゴルの「ウルス」に組みいれ、ウラル川西方からドニエプル川流域、南ロシア草原にいたる広大な地域をジョチーウルス一キプチャク汗国)の領土にしました。汗は、臣従するスラヴ諸公に対しては公位を認め、貢税の義務を課しました。他方、安堵されたロシアの諸公は、所領地の住民から租税と兵員を取立て、汗に奉納しました。キプチャク汗国では、モンゴル系とトルコ系の混血が進み、言語的にも文化的にも急速にトルコ化して、一四世紀前半にはトルコ系ムスリムの国になります。

キプチャク汗国は、商業を奨励しました。モノの生産者から税を取るよりも、商人から税を取るほうが容易だったからです。商業が盛んになるためには、商人が扱う商品がふえる必要があります。汗もロシアの諸公も、殖産興業に努めました。モンゴル=ルコ支配時代に、先進的トルコ、ペルシア、アラプなどのオリェント=イスラム文明がキプチャク汗国を通じてロシアに浸透します。トルコ語やペルシア語起源の(商品)(金銭、国庫)(負債)(市場)などの経済用語がロシア語として定着して行きます。(宿駅、宿場)もモンゴル語のジャムチ(駅伝)からきたロシア語です。この時期ロシアは、貢納や商業を通じて、トルコ化したモンゴル=イスラム経済圏に包摂され、活気ある状態にありました。この時代を「タタールのくびき」と呼び、ロシアの進歩を阻んだ暗黒の時代として描くことは誤りです。

話題を変えて、ロシアの膨張についてお話ししたいと思います。スラヴ世界にも勢力の消長がありました。古くは南スラヴでブルガリア王国が一〇世紀に最盛時を迎え、領土を最大にする。西スラヴでは一五世紀にポ−ランド王国が膨張して、今のバルト三国一帯からウクライナ、黒海方面へと勢力を伸ばして行く。スラヴ族ではないが、ルーマニア、ハンガリーが台頭した時期もある。前近代では、有能な指導者が生まれれば、ビザンチンやオスマン等との関係をうまく利用して、急速に民族の力を高める、ということがありました。こうした諸民族の国家形成のなかで、国境はしばしば変わり、あそこは昔自分たちの領土であったというような意識が形成され、領土問題や少数民族問題が生まれました。それは未解決の問題として、二一世紀の現在にもちこされているのです。

こうしたロシア・バルカン世界での民族・国家形成のなかで、東スラヴ族のなかのロシア人は大ロシア人意識を育て、ロマノフ朝のロシア帝国の時代に入ると、パンスラヴィズムの意識を形成し、自分たちが中心になってスラヴの大同団結をはかり、中央ヨーロッパからトルコのアナトリア、南スラヴ族の住むバルカン半島までを統一してしまおうとする動きが高まります。ブルガリアのオスマン・トルコからの独立にも、積極的に軍事支援を行って行く。プルガリアも南スラヴの諸民族も四〇〇年以上オスマン帝国の属国になっていたので、ロシアはその独立を支援していくことで、自己の勢力を伸ばしていったのです。それに東方教会のもと、モスクワこそ「第三のローマ」であるとする意識が生まれました。           

ロシア帝国の領土や影響力の拡大は、ロシアの皇帝や貴族、宗教者、さらには庶民にとっても、パンスラヴ主義実現のための正義の行為であったのです。

ロシア帝国は、中央アジアのイスラム世界にも膨張して行きます。中央アジアヘの進出は、綿花の獲得ということが動機の一つです。政治的、軍事的にはイギリスの中近東、インド、アフガニスタンヘの進出に対抗するために、軍隊を送ることになります。軍隊が駐屯するようになれば、アラル海やカスピ海の沿岸、こうした内陸湖に流れ込む河川の流域などに、コサックや農民・商人が移住して行きます。

ウラル山脈を越えてシベリアヘ、極東への膨張は、すでにモンゴル帝国の分支国シベリア汗国が滅び、アジア系の遊牧民・狩猟民が個別にはロシアの軍事力に抵抗できないという状況のもとで進みました。シベリアの豊かな毛皮を求めて、コサックや商人が進出します。さらに彼らは、べーリング海峡を渡ってアラスカにまで行きました。

住民から毛皮税をとり、また特許状を持った商人が毛皮を買付け、それをペテルブルクヘ、さらにパリなどに輸出して行く。こうした形でシベリアやアラスカの毛皮が最大の商品になりますし、またシベリアで金鉱が発見されるということもありました。中国の清朝との問にイザコザがありましたが、清朝はそれほどロシアの進出に警戒心を持たなかったようです。こうしたもろもろの事情によって、ロシア帝国はシベリア全土を帝国の領土にしたのです。なおアラスカは、思ったほど儲からないということで、一八六七年に七二〇万ドルで、アメリカ政席に売却されました。

脱線しますが、学生諸君に領土の問題について考えていただきたいと思います。アラスカの狩猟民は、ロシア帝国臣民からアメリカ合衆国国民になったわけですが、本人たちが意向を訊かれたわけではないし、住民投票もありませんでした。頭ごなしです。彼らの生活の糧というか土台は、生き物の獲物であって土地ではありません。狩猟民族や遊牧民族、漁労民族は土地所有に執着しません。ここに悲劇が生まれました。近代に入り、「寸土を争う」という農耕民族の強国が世界の分割・再分割闘争に乗りだしたからです。領土-国民-国家という三位一体は農耕民族に特有のものであり、遊牧民や狩猟氏、漁労民には関係ありません。ソ連とモメ、現にロシアとモメている「北方領土」は、本当に日本固有の領土なのでしょうか。経済学や歴史学は、遊牧民や狩猟民、漁労民の経済生活や歴史にもっと関心を持つ必要があると思います。

 

■−一八二五年に起こったデカブリストの反乱関係者のシベリア流刑がありましたが。

中村−ロシアの貴族やインテリゲンチヤは、イギリスやドイツなどよりも、フランスの文化・芸術術を尊敬しており、仲問内ではフランス語で話していました。貴族はパリにマンションを所有しており、子弟をパリに送って教育しました。そんなわけで彼らは、フランスやヨーロッパの近代化の状況をよく知っておりました。とくにナポレオン戦争に従軍した貴族出身の将校たちは、パリヘの旅のなかで、ヨーロッパ杜会の激動をみて、後進的なロシアの改革を志すのです。帝政を廃止し、共和国にする、というラディカルな網領を掲げます。それがデカブリストの反乱です。反乱は鎮圧され、首謀者は死刑、他の多くのものはシベリアに流刑になりました。もちろん、人数で言えば、シベリア流刑者の多くは、一般の刑事犯、囚人であったと思います。これらの囚人は鉱山などで働かされます。

■−デカフリストの反乱の首謀者以外に、シベリアや中央アシアに農民や少数民族関係者が強制移住させられる、というようなことはなかったのでしょうか。中国では歴代の王朝体制下で強制移住が行われていました。最大のものは明朝の初期に、戦乱で荒廃し、人口が激減した華北大平原に山西省から何十何百万にものぽると推定される農艮が強制移住させられたのが有名です。大なり小なりこうしたことは、中華帝国の構造のなかに組みこまれていました。毛沢東時代に辺境に置かれた建設兵団や文化大革命時代の「上山下郷運動」、現在行われている三峡ダム建設のための一〇〇万人にのぼる大移住も、こうした中華帝国下の強制移住の歴史的伝統なしには考えられません。スターリンのラーゲリと呼ばれる強制収容所の全面的展開も、帝政ロシアの強制移住の歴史を、より大規模に継承発展させたもののように思われますが。

中村−皇帝の命令でシベリアや中央アジアヘの農民の移住がありましたが、ただそれがロシア帝国の少数民族であったのかどうか、不勉強で私は知りません。ロシアでは、なんと言ってもコサックの問題が重要だと恩います。英語ではコサック、ロシア語ではカザークと呼ばれますが、彼らは農民反乱を起こして帝国の辺境に逃亡し、各地で武装してコミューンをつくって集団で暮らしていた人々です。彼らはもともとは農奴であり、領王や貴族に反抗して邸宅に火を放ったりしたので、捕まれば当然のこと縛り首になるべき連中でした。その数は半端ではなく数十万人。彼らは帝国の辺境の地で強夫な勢力になり、ドン・カザークとか、ボルガ・カザークとか呼ばれるようになりました。しかし、その後赦免されて、ロシア皇帝の直属になり、皇帝の軍隊になり、一部はシベリア征服に投入されて、シベリア・カザ−クになってゆきました。

スターリン時代には、欧露のユダヤ人、極東の朝鮮人、クリミアのタタール人やカフカスのチェチェン人などを強制移住させ、また「人民の敵」をラーゲリに入れて逃げないようにし、開拓や土木事業に従事させました。まさにロシア帝国のやり方を真似し、大掛かりにしたものです。単に監禁しておくのではなく、働かせ、食べるものもつくらせ、鉱工業資源の開発や、中央アジアの大運河建設などにラーゲリの労働力を用いるというようなことは、ツァーリズムの伝統を受け継いでいる、と言ってもよいと思います。

 

■−話は元に戻り一九三〇年代後半のスターリンの大粛清ですが、一党独裁の共産党内の権力闘争というよりも、一九三二年の満州国の樹立、三三年のヒトラー政権の成立に象徴される、日本の天皇制ファシズム、ドイツ・ナチズム、こうしたファシズムが東西に台頭するなかで、孤立したソ連の引き締め対応策と考えられませんか。スターリンは、日本とドイツ、この二つに東と西から挟撃されると感じ、疑心暗鬼に陥ったのではありませんか。また三七年の赤軍将校の大旦里粛清は、ヒトラーに対する融和・妥協を示すシグナルだったように思えます。まったくの素人的考えですが。

中村−小林先生のような見方も成り立つと思います。ソ連は友邦が一つもありませんでした。しかもソ連を敵視する国に軍事的に包囲されていました。味方は、コミンテルン傘下の各国共産党と外国の民問友好団体「ソヴェト友の会」くらいでした。ソ連の最高指導者スターリンを終始直撃していた重圧は、想像を絶するものがあります。ともかくスターリンは、大変な政治家です。対日関係に限っても、日ソ中立条約問題とか対日参戦の経緯をみると、日本の政治家よりも数段人物が上です。

 

■−話を変えまして、ソ連崩壊後に日本のソ連研究者は、研究方法やテーマについて、どのような変更を迫られたのでしょうか。

中村−現在、ロシアや東欧の旧社会王義国は、資本王義への移行を目指し、そのための政策を試行しています。それにともなって、移行期経済の研究を中心にしてゆく人々が当然多くなっています。社会主義理論面では、アソシアシオン論とか協同組織論、ネオソーシャリズム、ネオマルクス主義というような方向で学問的に昆開してゆこうという人々が若干おります。しかし、社会主義のソ連に関心のあった人々は、資本主義に移行して行くロシアをウオッチする元気はもうない。こうして少数ですが専門を変える人々がでています。マルクス主義を捨てても、若い人たちは、柔軟な頭脳を持っていますから、新古典派やケインズ派の専門の本を二〇〇冊も読めば、すぐに基礎はできます。全体的に見れば、七割近くの人がソ連・東欧の移行期の経済・政治・社会・歴史に関心を持っていると思います。

ソ連崩壊後、崩壊したソ連はいかなる性格の社会経済体制であったのか、という議論が起こりました。それについて紹介しましょう。私の説は、マルクス的杜会主義とは範疇的に区別される特殊な社会主義、二〇世紀の「新生事物」である「発展途上社会主義」の崩壊です。これ以外に四説あります。一つは、塩川伸明(東京大学)氏や青木國彦(東北大学)氏の説で、マルクスが構想した社会主義の実現形態がソ連社会主義であり、その崩壊はマルク

ス社会主義学説の破綻を意味する、という主張です。いま一つは、大谷禎之介一法政大学)氏や鈴木重靖一山口大学)氏の説で、ソ連は「国家資本主義」の社会であった、その資本主義が崩壊した、という主張です。三番目として、日本共産党の不破哲三氏の「資本主義でも社会主義でもない社会」、の崩壊説があります。最後の一つは、門脇彰(同志社大学)氏の主張する「前期的社会主義」の崩壊説です。私は、以上の四説に賛成できません。

今日、日本ではマルクス主義やソ連研究・社会主義研究の混潮があります。若手研究者の養成が困難になっています。今こそ二〇世紀社会主義の総合的研究、理論的総括が必要だと思います。歴史家、社会学者、政治学者、経済学者の総決起を期待しています。経済学部の書庫で諸大学の紀要を見ていたところ、安井修二教授(香川大学)が、『資本論』体系を基礎に「市場社会主義」を研究している論稿にであいました。凡百の市場社会主義論に優る論旨が展開されており、感動しました(安井修二「市場社会主義論」香川大学経済学会・一九九八年)。このような研究が続々と現れることを期待しています。

 

■−中村先生が先ごろ書かれた「ソ連を殺したのは誰か」と題する論文を読んだのですが、ゴルバチョフ時代の改革派官僚が殺したのだという結論だったと思います。この論文では、それ以前のプレジネフ体制、スタ−リン体制下での生産力は高く、改革派がやり始めてダメになったとして、旧ソ連体制下の経済を高く評価していたように覚えていますが、体制がゆきづまって崩壊したのではないでしょうか。

中村−もちろん、体制がゆきづまって崩壊したのです。しかし、中央計画経済や指令経済はまったくダメで、市場経済こそベストだという説には、私は賛成できません。私のこれまでの仕事は、史料というか資料にもとづく実証研究ではありません。仮説から仮説をつなぐ論文モドキです。檜にはなれない〈あすなろ〉論文です。したがって、ある程度論理的な思考力がなければ、論理展開ができません。

最近メモリーがだいぶ劣化してきて、思考力の低下を感じています。それで以下の主張は、たちまち猛反対を受けると思いますが、破れかぶれで、いま考え中の指令経済もしくは計画経済の問題について、述べてみたいと思います。指令経済は長い歴史を持っています。古代、ある皇帝が先帝より立派な自分の墓の建設を考え、側近の官僚」たちに墓づくりを指令したとしましょう。部下に対して指令しさえすれば、皇帝の願望がかなえられる、などということはありません。指令とはcommandの意味で、抗命は許されません。絶対服従、絶対遂行であり、抗命者は反逆者であり、死刑に処せられます。しかし、単なる指令経済ではダメで、計画的指令経済のみが実行可能です。

たとえば、エジプトのピラミッドのような巨大な構造物を設計・建設するプロジエクトでは、総合的な計画があり、それを構成する部分計画、部分計画にもとづく具体的で合理的な資源調達・配分がなければなりません。つまり石材や木材の切出・運搬、労働力の調達・配分、労働者の食事・宿泊施設、また資材の購入費、労働者への賃金の支払の問題など多岐にわたる問題があります。鞭で殴りつけて、奴隷などの強制無償労働で、ピラミッドの建設ができるなどとは、とうてい考えられません。経理会計専門家や工事専門家がいて、また細かい工事日程をつくり、新古典派経済学がいう生産要素とその配分が、もちろん今日のような正確な計算ではありませんが、事前に計算されていなければなりません。市場メカニズムによらない合理的資源配分が可能なのです。

中国の長江から黄河にかけて掘られた大運河は、公共財として、今日も役立っていると聞きます。万里の長域は、現代風に言えば、外敵を防ぐための国防財ですが、今日観光資源となって中国経済に貢献しています。これも立派な公共財です。これらの大土木工事は、歴代皇帝の指令でできたのですが、多くの専門家、多くの労働者が関与し、膨大な資源を動員する大きなプロジェクトであり、その遂行に当たっては、合理的な計画的指令経済の要素があつたと考えざるをえません。

計画経済(指令経済)は、一九世紀にマルクスが発案し、二〇世紀にソ連や中国で実施されたというようなものではなく、前近代にすでに多くの経験が蓄積されています。前近代の場合、皇帝や王、大名や将軍の指令は絶対ですから、数々の悲劇があったと思います。失敗に終わったプロジェクトも多かったはずです。しかし、合理的な指令、つまり計画の裏付のある指令のみが実現可能でした。計画の裏付のある指令経済です。ある帝国が隆盛の時代には、そうした大きな事業が行われました。二〇世紀のソ連や中国は、大きな事業だけでなく、中小の事業まで、国の計画的指令経済でやりました。

計画的指令経済として、私が旧ソ連時代に注目しているのは、次の事実があるからです。一九一八年から二一年までの外国干渉軍との戦争および国内戦、それに四一年から四五年までの独ソ戦、この問の戦時経済はマイナス成長でした。しかし、それ以外の期閻はすべてプラス成長です。計画的指令経済の長所であり、成果です。

一九八○年代、ソ連の経済成長は、アメリカの公式発表で年平均ニパーセント、ソ連の発表で二・五パーセントでした。マイナス成長に転化したのは、九〇年と九一年だけです。どうしてそうなったかというと、ゴルバチョフ時代末期、連邦が何を言っても資源はウクライナのものだ、連邦の憲法よりロシア共和国の憲法が優越する、こういった分裂が起こり、連邦全体の産業運関が共和国ごとに分断され、生産の停止あるいは縮小が起こりました。そこで各共和国の経済はすべてマイナス成長となり、その総計のソ連経済もマイナスになったのです。

一九九一年一二月にソ連邦が消滅すると、ロシア連邦はじめ各共和国の経済は、「粗野な市場経済」のもとで、ますます悪化して行きます。ロシアの場合、一九八九年を一〇〇として九九年には五〇くらいまでGDP指数は落ちました。同じ時期、日本経済もバブルが崩壊し、失われた一〇年を経験しますが、ロシアほどひどい状況にはなりませんでした。なにしろロシアでは国民経済の規模が半分になったのです。これは大変なことです。ペレストロイカの末期、市場経済への移行計画が策定され、わずか二〇〇日とか四〇〇日で市場経済に軟着陸するなどというものもありました。ロシア連邦の大統領エリツィンは、ガイダルなどという若い新古典派の経済学者を登用しますが、ロシア連邦の経済は悪化するばかりでした。マイナス成長の行進で、ロシアの経済は、国内戦期や独ソ戦期よりも悪くなり、国民を苦しめています。

 

■−ソ連の指令経済の問題ですが、一九世紀の指令経済と二〇世紀の綴密な指令経済とでは、両者はかなり異なっている。ソ連はマルクスの再生産表式を使って五カ年計画などを立てるのですが、それは第一部門にしか適用できません。ただ鉄を生産するだけならいいですが、鉄だけつくっても意味がない。鉄と鉄を使用する消費財生産部門とが結びつかなければなりません。ゆきづまった経済を立て直すために、たびたび改革を行つのですが、もう構造的に破綻し、その当然の結果としてソ連の崩壊に至る。改革派官僚の政策の失敗というよりも、必然的な結果であり、ソ連体制の崩壊は、ある意味で、遅きに失したと査言えるのではないでしょうか。

中村−そんなことはありません。ゴルバチヨフは、「規制された市場経済」を導入し、ノメンクラトゥーラ(党国家官僚)、とりわけ経済官僚の力を削ぎ落し、経済成長の回復をはかり、その後に言論・集会・結杜の自由、市民的自申政治的自由を実現すべきでした。ソ連は、一九七九年に始まる中国の改革・開放路線を学んだらよかった。

しかし、ソ連は本家本元意識というか、先輩意識が強くて、ついに中国の経験に学ぼうとしませんでした。その点、中国の指導部は大したものです。小国ハンガリーの経済学者コルナイを招き、目market socialism研究しています。

 

■−杜会主義を考又る時、経済過程だけを見ていては充分ではないと思います。一般的には、権威主義体制のもとで経済発展が進めば、それに影響を受けて政治体制がもたなくなります。しかし、社会主義体制のもとでは、政治体制をより強化して矛盾を乗り切ろうとし、構造的危機はますます激化する。それがゆきづまりの構造です。

中村−経済学は社会科学の女王と言われていますが、経済学帝国主義はよくありません。経済過程がすべてを決定するわけではありません。ソ連では、共産党の権威主義体制、つまり開発独裁体制と、経済発展にともなう成熟途上の社会との間に亀裂が生まれました。しかし、ソ連の民衆は、スターリン主義体制のもとで、徹底的に非政治化されていました。ソ連では、民衆の生存権的「自由」は一定程度保障されましたが、言論・集会・結社の「自由」、政治的自由は、ペレストロイカの最終局面に、やっとのことで、上から与えられたのです。当然、スターリン主義のもとで暮らしてきたソ連の民衆は、この権利の行使に慎重の上にも慎重になります。事実、クーデタがあり、ソ連が崩壊したあの暑い一九九一年、モスクワやペテルブルクを除けば、ソ連の民衆の日常性というか保守性は牢固たるものがありました。民衆とは関係ない部面で、ソ連のノメンクラトゥーラ、すなわち党国家官僚主導のペレストロイカが行われ、派閥の内部対立で、ペレストロイカは失敗に終わったのです。

 

■−レーニンの革命論と党の理論について、お考えをお聞きしたいと思います。レーニンがプロレタリアートとともに、被抑圧民族の解放と彼らの闘争を世界革命のなかに位置づけたというお話しを先ほどお聞きしました。さてレーニンの党理論とは、簡単に言えば、プロレタリアートの前衛党、職業革命家の党、鉄の規律の党、暴力革命の党といったものと私は理解しているのですが。しかし、このレーニン主義は、マルクス・レーニン主義と称するスターリン主義を生みだし、スタ−リン主義の階級闘争理論によって社会主義革命が成功した国では、例外なく「党の独裁」、「書記長の独裁」、「内部粛清」を結果として産みだしました。

マルクス・レーニン主義は、アジア・ラテンアメリカで大きな成功を収め、民族解放・民族独立のために、大きな貢献をしたことは否定できません。マルクス・レーニン主義は、被抑圧民族、被抑圧階級の抵抗・闘争・解放の局面では、大きなイニシアチブ、大きな力を発揮したのですが、革命に成功し、国家権力を握った後の民主主義の発展と経済建設ではまったく失敗でした。ロシア革命は、アジア・アフリカニフテンアメリカの民族解放闘争の局面および反ファシズム闘争の局面においてのみ、世界史をリードすることができました。どうも私にはそうとしか思えないのです。

マルクス・レーニン主義を信奉する革命党および個人が、抵抗・闘争・解放戦争などの局面で活躍したことは、命を惜しまない革命家、人民の身代わりになって死ぬ犠牲者、誤りなき科学的路線の実行者、等々として、革命党とその指導者を神聖化し、絶対化して行くことになります。こうしてレーニン、スターリン、毛沢東、金日成、ホ−チミン、カストロ、ポルポト、チトー、アルバニアのホッジャ、エチオピアのメンギツス等々の指導者・絶対者が登場するのだ、と私は思うのです。

一九世紀後半から二〇世紀の三〇1四〇年代にかけての需国主義、植民地主義の全盛の時代に、この強力な敵に対して、革命戦争や民族解放戦争を戦い抜くには、以上に述べたような路線・形態しかなかったのではないか、また余りにも多くの犠牲者をだしたのですが、しかしそうした代価を支払う、それしかなかったようにも思われます。

どう考えたらよいのでしょうか。

.中村−重い質問、難しい質問です。既存の体制を破壊する局面で能力を発揮する政党あるいは個人、とくに個人が、新体制の建設の局面でも能力を発揮できるとは限りません。革命の元勲はよいとしても、その元勲が死ぬまで最高指導者として、新体制のもとでも実権を持ちつづけることは、たしかに問題があります。たとえば、ソ連のスターリン、中国の毛沢東がその典型的な例です。小林さんの問題提起については、即答できません。機会を改めて考えさせてください。

 

-マルクス主義は、近代資本主義あるいは市民杜会の精神である「自由」および「平等」という二つの原理の乖離・矛盾を、「平等」を絶対化することで、克服しようとする思想・運動だったと思います。しかし、資本主義的市場経済に対して、国家権力による政治的平等を対置した社会主義は勝利できませんでした。

中村-自由を犠牲にし平等を重視した、ということですか。マルクスの場合、共産主義社会における「自由」と「平等」に軽重をつけ、序列をつけたことはありません。スターリンは、市民的「自由」の実現など考えたことはありませんでした。勝ち負けについて言えば、二〇世紀の従属的社会主義、つまり発展途上社会主義は、支配的資本主義に敗北する可能性がありました。可能性が実在性に転化し、二〇世紀末、ソ連・東欧の発展途上社会主義は敗北したのです。しかし、発展途上社会主義は、形容詞なしのマルクス的社会主義に発展してゆく可能性を持っています。私は、中国の「初級段階の社会主義」論と、中国の理論家の今後の理論展開に注目しています。

 

■−中国研究とのかかわりを広げていくということでしょうか。

中材-もう歳なので無理です。二〇年近く前のことですが、中国の経済学界で「過渡期」論争が行われているとの情報に接しました。その全容がどうしても知りたくて、八○年代の前半に一所懸命に中国語を勉強し、関係論文を全部読むことができました。「小過渡」論、「中過渡」論、「大過渡」論の三つがありました。中国の学者は、共産主義杜会を三つの発展段階-発達していない社会主義→発達した社会主義→共産主義-に分け、過渡期につい

て、次の三説を主張しました。@「小過渡」論資本主義から「発達していない社会主義」への過渡期、この時期だけを過渡期とする。A「中過渡」論@に加えて「発達していない社会主義」から「発達した杜会主義」への過渡期を含める。B「大過渡」論@およびAにさらに「発達した杜会主義」から「共産主義」への過渡期を加える。

なお「発達していない杜会主義」という表現は、その後中国共産党中央により「初級段階の社会主義」、「社会主義の初級段階」に改められ、中国で定着してゆきます。私は、中国での「過渡期」論争の全容を、翻訳資料「一九四九年革命後の中国社会の発展段階の問題」(神奈川大学『商経論叢』第二二巻第三・四号、一九八七年)として公表しましたが、大変好評でした。

現在、社会主義的市場経済に関する中国の学者の論文を、中国語で学生と読んでいます。なかなかおもしろい。開発経済理論の分野で、世界最大の開発途上国である中国の学者は、今後、確実に大きな貢献をするでしょう。もっと多くの日本の研究者が、アジアや中国の経済学界の理論動向に閤心を持つようになればと希望しています。

 

-最後の質問ですが、社会主義の歴史を振り返って、人類の未来に残す遺産は何だとお考えでしょうか。現代の資本主義についても一言お願いします。

中村-社会主義という遺産は、人類の貴重な遺産の一つです。ぜひ世界の若い人たちに伝えていきたいと思います。資本主義が最善の社会経済システムである、と考えている人は少数です。私の友人に某有名大企業の重役を務めた人がいますが、現役を終わった現在の感慨は、「悔いはないが、資本主義には問題がある」でした。ソ連型社会主義がつぶれたからといって、社会主義をゴミ箱に捨ててはいけません。

社会主義の歴史は、ヨーロッパでは、ギリシア・ローマ時代にまでさかのぼります。正しくは地中海時代の古代ですが、奴隷と土地を所有する支配階級のローマの貴族たちは、自分たちの共済組合のようなもの、現代的に言えば、「消費コミューン」をつくり、没落貴族を救いました。中世には、キリスト教の教会の修道士や修道女がつくる「生産・消費コミューン」がありました。社会主義はなにもヨーロッパの専売ではなく、オリエントやアジアの古代・中世にもあったと思います。アジアに社会主義の思想・実践がないといった断定は、非科学的です。社会のあるところ、社会主義はあるのです。

近代に入って、ヨーロッパで一九世紀に資本主義が急速に展開するなかで、社会主義の理論と実践は多種多様な発展を遂げます。近代資本主義社会を批判し、それに代わる社会主義社会の建設をめざすという点で、そしてこの世直しを担う政治結社の登場という点で、またこの政治結社への広範な勤労市民の参加という点で、近代杜会主義は、それ以前の社会主義と質的に区別される発展を遂げました。

二〇世紀に入ると、後に第一次世界大戦と呼ばれる大きな戦争の最中に、ロシアで社会主義の実現をめざす政治結社、つまりロシア共産党が国家権力を握りました。そして実際に、世界資本主義体制のもとで、発展途上社会主義、すなわち従属的社会主義の建設が始まりました。この事実は大きい。それは、近代社会主義から現代社会主義への前進を意味します。

ソ運の途上国型社会主義は、支配的資本主義に大きな衝撃を与えました。ソ連の登場により、一九世紀型のスミス的自由放任の資本主義はもはや存続できず、ケインズ派がいう修正資本主義への転向が起こります。世界資本主義のなかの支配的資本主義、新古典派経済学者が支える欧米日の資本主義は、ソ連杜会主義の登場に恐れおののき、ソ連の抹殺をはかりました。それだけでは安心できず、自国や植民地・従属国の社ム不王義政党を弾圧し、その党員や支持者を拷問にかけ、容赦なく殺害しました。この一事を見ても、二〇世紀の支配的資李王義は自信がなかったのです。

二一世紀が始まりました。マルクスニ世が現れ新『資本論』を書き、レーニンニ世が新『国家と革命』を公表するでしょう。二一世紀には、ソ連型杜会王義の失敗を反面教師にして、マルクス的共産主義の実現をめざす勢力が登場し、ついに真の人類史が始まると思います。そうとでも考えなければ生きていけませんね。神奈川大学の中村ゼミの不器用な卒業生たちは、リストラが進み、不安定雇用が現実のものになった日本資本主義のなかで生きてい

ます。就職口のない恐怖、仕事のない恐怖、失業の恐怖、お金のない恐怖などがある社会が、いつまでも続いてよいはずはありません。人聞はバカではないのです。

 

小林

長時問ありがとうございました。ともすれば歴史の彼方に葬り去られたかのような、ロシア・ソ連社会主義歴史に新たな視点から光をあてて頂き興味深くお聞きしました。「人問はバカではないのです」という言葉を忘れずに、私も改めてソヴェト史を勉強し直そうと思います。

 

※小林追記・中村先生は最近以下のような論稿を発表しております。興味を持つお方がおられましたらお読み頂きたいと思っています。「発展途上社会主義の崩壊」(神奈川大学『商経論叢』第三二巻、第二号、一九九六年)、「ソヴェト社余王義共和国連邦の崩壊()()(同上、第三四巻、第一号および第四号、一九九八-九九年)、「連邦国家としてのソ連の崩壊」(立命館大学『立命館国際研究』第十一巻、第三号、一九九九年)、「ソ連を殺したのは誰か」(同志社大学『同志社商学』第五二巻、第四・五・六号、二〇〇一年)等です。

 

小林一美(こばやしかずみ)

一九三七年生まれ。東京教育大学大学院文学研究科博士課程修了。神奈川大学外国語学部教授。中国近代史。

著書

『中国民衆反乱の世界(正、続ご^共編著、汲古書院、一九八三年)『義和団戦争と明治国家